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週刊読書人 2025年12月26日
阿部暁子『カフネ』
椙山女学園大学 松井 美諭

四六判・304頁・1870円 
講談社
978-4-06-535026-3
TEL.03-5395-3676


 〝愛する人の髪にそっと指を通す仕草〟
 そんな意味を持つ『カフネ』という題に惹かれた。けれど読了後残ったのは、ぬくもりより先に立ち上がる痛み、そして誰の中にも潜む「思い込み」の影だった。
 本作は、離婚により酒に逃げるようになっていた薫子が、弟・春彦の遺言書をきっかけに、その元恋人・せつなと出会うところからはじまる。最初はカフェでの待ち合わせに遅刻して平然としているせつなにも、子どもをさらう想像をする薫子にも、違和感を持たざるを得なかった。けれどそれは、人を表面的に判断してしまう筆者自身が、あぶり出されていることに、あとから気づかされた。
 「あなたのそういうところ、息苦しいのよね」。
 薫子の母は、呼吸をするみたいにそう言い放つ。車が来なくても信号が青になるまで待ち、拾った十円玉を数キロ歩いて交番に届ける。子どもの頃からずっと変わらない、律儀で誠実な薫子。母はその真面目さを迷わず「窮屈」と断じる。母にとって薫子は、〝自分の子〟という枠に収まった存在で、どんな言葉を投げても許されると思い込んでいる。一方、息子・春彦には、柔らかな光だけを注ぎ続けた。その落差ははっきりしていて、薫子の胸には言葉にできない痛みが静かに積もっていく。親だから言えるのではなく、親だからこそ見落としてしまうものがある。本作はその真実を、声高ではなく、沁みるような描写で示していく。
 元夫・公隆からの突然の連絡に揺れる、薫子の姿も忘れがたい。誰の心にもある、小さなときめき。その裏側で、人に見せない弱さがそっと震える。強く見えるものの奥に、言葉にならない孤独が潜んでいる。
 せつなとの関係は、最初こそ最悪だった。しかし家事代行ボランティアの活動を通して重ねる時間のなかで、互いの内面が少しずつ溶け合うように近づいていく。せつなの頑なさは揺らがないが、諦めない女・薫子の前に長く閉じていた扉が、ゆっくりと開いていく。
 知らない種類の人を前にすると、どうしても身構えてしまう。それどころか、近くにいてよく知っていると思っている人間のことですら、本当には知ることはできない。思い込みは、大切な誰かの声を遠ざけてしまうこともある。だからこそ、薫子の変化は、読む者自身の何かを変え、そっと背中を押してくれる力となる。
 『カフネ』には、食、健康、子どもをめぐる大人の価値観などのモチーフが、存分に込められている。食べ物には味があって当たり前、子どもがいて当たり前、親がいて当たり前、そうした思い込みを前に立ち止まり、改めて考えさせてくれる。生きていくうえで省みるべき大切なことが、一本一本線のように丁寧に編み込まれている。
 ここに描かれるのは架空の人物たちのはずなのに、その言葉の端々が、現実の胸を微かにふるわせ、忘れていた記憶をそっと照らす。描かれたやさしさの奥に、現実を見つめるまなざしが、この作品には確かに息づいている。
 本作が問いかけるのは、人と人が関わりを持って生きていくとき、「優しさ」というものが、共に生きることを許しもし、ともすれば大事な何かを見落とさせることにもなる、ということではないだろうか。
 人と人が本当にわかりあうことは難しい。でも、見えないものを見ようとする視線を取り戻し、言葉にならないものを伝えようとするとき、心はほんの少しあたたかくなり、今日を生きていくことができるのだ。


 ★まつい・みゆ=椙山女学園大学文化情報学部3年。全国のブックカフェを巡りながら、本と人との思わぬ出会いを楽しんでいます。

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